衛生科での定期健診が終わって真澄とアークが外に出ると、夕暮れに涼しさが漂っていた。
夏の終わり、空が眩しい金に染まる。
運動がてら歩いて帰るには丁度いい気温だ。真澄が身重になってからというもの、馬に乗るのは念のためということで控えているが、どうせ歩くならばこうして天気が良い方が気分も上がる。
「足元気を付けろよ」
まだ明るいにもかかわらず、隣を歩きながらアークが手を差し出してくる。
こういう部分は以前にも増して濃やかになった。これが実際に子が生まれたらどういう風になるのだろう。考えるだに想像もつかないが、とりあえず放ったらかしにはならなそうで真澄としては安堵する。
アークと真澄の初子が生まれるまで、もう一月を切った。
生まれたらどんな生活が待っているのか、いやその前に自分は陣痛を乗り切れるのか。あれやこれや考えながら歩いていると、そういえばの疑問が頭に浮かんだ。
名付けだ。
これに関してその可能性があるんだろうか。大きくなったお腹を撫でながら、真澄は隣を歩くアークに話しかけた。
「ねえアーク。この子の名前ってさ、やっぱりアルバリーク風になるんだよね?」
「あ? ……ルバリーク風ってどういうことだ?」
「アークみたいになんかやたら長い感じの名前になるのかなって。もう臨月だしぼちぼち考えなきゃなーって思ったけど、そういえば私ってアルバリークの名前がどんなのあるか全然分かんないから」
「そういうことか」
合点がいった、という顔をしつつ、アークが真澄のお腹に視線を投げてきた。
中にいるのは男の子だと分かっている。
分かっている、というか、今日それが判明した。
真澄としては現代医療もないアルバリークにおいて、胎児の性別など生まれるまでは絶対に分からないものだと端から期待はしていなかった。実際、市井に生きる庶民たちはそうらしいのだが、宮廷関係者――いわゆる王族をはじめ、騎士団長や魔術士団長などの要職についている人間に関しては、その限りではなかったのである。
宮廷内の妊産婦の定期健診は、後方支援方の衛生科が担当となっている。
後方支援方といいつつ実は衛生科直属の魔術士が何名かおり、可視化に長けている一人が経腹エコーよろしく胎児の状態を診てくれ、性別も判定してくれたのだ。
真澄としては性別が分からないなら生まれてから名前を考えようかな、くらいに思っていたのだが、うっかり今日分かってしまったので、それならばある程度は考えておいた方がいいんじゃないかと思ったのである。
とはいえ、アルバリーク人ではない真澄には、そもそもどんな名前があるのかが皆目見当もつかないのだ。
「別にアルバリークにこだわらなくていいぞ。なんならマスミの国の名前でもいい」
「えっそうなの? そんな大らかな感じでいいの?」
「どうせ俺にはもう王位継承権はないからな」
「ふうん。てことは、王位継承権がある状態ならやっぱりアルバリーク風の名前じゃなきゃ駄目なんだ」
「アルバリーク風っつか、その場合は名前を二つつけなきゃならん」
「二つ?」
わけの分からないことを言いだしたアークに対し、久しぶりに真澄の頭が疑問符で埋め尽くされる。
ふと隣を見上げると、緩く吹く風がアークの黒髪を揺らした。同じように黒い瞳が、高い位置から真澄に向けられる。
「アルバリーク王族はな、万が一に備えて二つ以上合わせた形の名前をつけられるんだよ」
「はあ」
「俺はアークレスターヴだろ?」
「そうね」
「お前は出会い頭に『長え』って文句言っただろ?」
「そんなこともありましたね」
「長い理由は俺の名前がアークとレスターの二つが合わさってるからなんだよ」
アルバリーク人の名前が十把一絡げに長いわけではなく、王族だからこそそうなったのだ、とアークは言った。
王族は有事の際――つまり敵国からの強襲や、あるいは謀反などが起こって政変が発生した場合など、宮廷から脱出して生き延びねばならない。
その際に、宮廷で呼ばれていた名前そのものを使うと素性が露見してしまう。これを避ける為に、名前を分割できるようにするのが習わしだという。そして、もし落ち延びた時には名前を短くして市井に紛れ、高貴な血筋であることを隠しながら生きるらしい。
知られざるアルバリークの一面を教えられ、思わず真澄は瞠目した。
「そうだったんだ。あれ、でも」
驚きつつも、ふと浮かんだ疑問があった。
「その理屈だと、普段からアークレスターヴ様って呼ぶのが正しいってこと?」
有事の際への備えということであるならば、平素はその限りではない、ということになる。つまり二つ以上繋がった名前が正式に呼ばれて然るべきではないのか、と。
そんな真澄の問いに、アークは「まあそうなんだが」と返してきた。
「結局のところ、正式名称は長いから面倒くせえんだよ。だから愛称って形でどちらかの名前で呼ばれることもまあ普通にある」
「愛称ってさ、近しい人が呼ぶやつじゃないの?」
日本ではあまり馴染みのない文化だが、地球の欧米圏では愛称呼びが確かにあった。シンシアの母国アメリカでもそうで、テレサがテリー、リチャードがディックなどと呼ばれたりで枚挙に暇がない。
そんな真澄の問いに、アークはまたしても「まあそうなんだが」と返してきた。
「なんつーか、実際のところどう呼ばれるかはその王族によるってのが実態だな」
「なにそれ」
「王位継承権持ちに対しては、その親兄弟――つまり同じ王族か元王族しか愛称では呼ばない。それ以外の人間は呼べない、と言った方がより正確だな。王族本人がどうあれ、周囲から不敬と見做されることが多いからだ」
「あー、だからアークはテオのこと、テオって呼ぶんだ? ヒンティ騎士長とかはテオドアーシュ殿下呼びなのに」
「そうだ」
「なるほどね。いっつも一緒にいるのに、なんでなんだろって思ってた」
薄く輝く金の髪に、透き通る青い瞳。アークの甥であるテオの顔が、真澄の脳裏に浮かんでくる。
利発な彼は、今日も今日とて王位継承権第二位としてあらゆる研鑽を積んでいることだろう。
そんな手の近くには常にヒンティ騎士長が控えていた。共に過ごす時間という意味では、あるいはアークとカスミレアズ以上だろう。それだけ近しい間柄であるはずなのに、なぜ堅い呼び方だったのか、その疑問が今解けた。
「ただ、元王位継承権持ちだと禁忌(タブー)はないから、どう呼ばれるかは本当に本人と周囲次第だ」
「それってさあ、もしかして騎士団長ならそこの騎士たちにどう思われてるかが表れるってこと?」
「まあそうなる」
「こう、素人意見なんだけどさ、やっぱ愛称で呼ばれる方が慕われてたりするんじゃないかなって思うんだけどどうなの?」
「慕われてるかどうかはともかく、少なくとも距離感は近いよな」
「ふーん……あくまでも一例として訊くけど、宮廷騎士団長って」
「隷下騎士は全員正式名称のイアンセルバート様呼びだな。表も裏も関係なく。近衛騎士長のヒンティでさえそうだろ」
「その心ってやっぱり」
「皆まで言うな。むしろ言わせんな。そこは騎士の情けだろ」
「ぷふっ……!」
そこで堪らず真澄は噴き出した。言うな言わせるなと言いつつ既にほぼ全部言っている。
あのガチガチの宮廷騎士団長イアンセルバートは、アークの次兄でありながらアークとは犬猿の仲だ。少なからずアークに対して肉親の情はあるらしいのだが、その表し方が言葉を選ばずに言うと「本当に余計なお世話」の一言なのである。言い換えると「その愛され方は迷惑千万」とも。
情に深いのは良いが受け手の気持ちは二の次で、イアンセルバートが良かれと信じて疑わないことを押し付けてくるものだからアークが辟易しているのだ。
性格を相手によって変えるというのは中々難しい。
ということは、アークと似たような事例が宮廷騎士団の中で頻発していると考えて良いわけで、そうすると自ずと答えは見えてくる。
「第四騎士団は大体皆アーク呼びだよね」
「まあカスミレアズがそう呼んでるってのもデカいだろうがな」
「近衛騎士長が呼んでればそりゃあね。あー、でもそういえばさ」
「なんだ?」
「アークって女性陣からはほとんどアークレスターヴ様呼びじゃない? アークって呼ぶの、トラスのお母さまとお姉さまたちくらいな気がする」
近衛騎士長カスミレアズの妻であり、第四騎士団次席楽士でもあるグレイスは、一介の楽士だった頃から今の立場になっても尚、必ずアークレスターヴ様と呼んでいる。
それ以外にアークと関わりのあった女性陣を思い浮かべても、皆が一様にそうだ。
宮廷次席楽士のシェリルやヴェストーファ騎士団の楽士イヴ、その妹のアンシェラも、なんなら第一騎士団の首席楽士であるアルマでさえ。
真澄が指折り数えていくと、隣を歩くアークの目が微妙に遠くなった。
「別に俺がそう呼べって脅してるわけじゃねえぞ。俺は誰からアーク呼びされても気にしない」
「いやさすがにそんな小さいこと言うような男だとは思ってないけど。でもなんていうか、面白いくらい男女で分かれてるなーって」
「俺の目力がきついのは母親譲りであって、俺が選んだわけじゃねえ」
「え、なにそれ。目付きが物騒だから女性支持もらえないって言いたいわけ?」
「言いたいんじゃねえ。昔言われたってだけだ」
「は? 誰に?」
「……」
「なんでそこで黙るのってか分かった、どうせその辺の楽士とかから散々言われたんでしょ」
真澄の前に、五十九人の楽士から逃げられた男である。
アークも手加減しなかったのだろうが、意趣返しに口さがないことを言われた可能性は多分にある。そしてそういうやり取りはまず間違いなく尾ひれがついて出回るもので、狂犬扱いされている騎士団長など愛称呼びの遥か手前で関わり合いになりたくないと思われても仕方がない。
「――別に、誰からどう呼ばれようと俺は構わん」
「このタイミングでそれ言ったら負け惜しみにしか聞こえないけど」
「うるせえ」
なにかに対して憤慨しながら、アークがふんと鼻を鳴らした。
「それにしても、グレイス大丈夫かなー」
話の流れで思いだし、真澄はふと呟く。「まだ芳しくないのか」とアークが少しだけ眉を潜めた。
「もうすぐ安定期って言ってなかったか?」
「あーうん、そうなんだけど。こればっかりは個人差あるから、時期によってつわりが軽くなるかどうかはなんとも言えないんだって」
心配が募り、真澄の口からついため息が漏れる。
実はグレイスも真澄の少し後に妊娠し、第四騎士団の首席と次席楽士は今まさに二人とも身重の状態なのだが、グレイスの体調があまり良くないのである。
妊娠初期の頃から吐きどおしで、ほとんどの食事や飲み物を口にできず、一時期は衛生科に管理入院もしていたのだ。最近少し落ち着いたということで退院はしたのだが、楽士としては働くことができず、基本的に宿舎棟にこもりっきりなのだ。
部屋が隣ゆえ、真澄も毎日顔を出して様子窺いをしている。
が、ただでさえ細いグレイスが今はもう本当にか細くなってしまい、グレイスは気丈に微笑むものの正直周囲は気が気でない。特に夫のカスミレアズは職務こそこれまで同様にこなしているものの、その表情はこのところずっと暗く思い詰めている。
真澄自身はそこまでつわりは酷くなかった。
ましてもう臨月で、大きなお腹で苦しいのは確かだがゴールは見えている。しかしグレイスはようやく中期に差し掛かった頃で、妊娠期間としては半分以上残っている。まだまだこれからなのだ。
「食べられるものも日によるから、料理長もかなり苦戦してるみたい」
「そうか」
「あ、でもそういえば一つだけ大丈夫な食材があったらしくて」
名前なんだったっけな、と真澄は首を捻った。
「えーと、なんとかテフ……ティフ? ドブルとかいう名前の、小さい実。なんかねえ、帝都ではあんまり栽培されてないらしいけど、行商が来ててたまたま手に入ったとかで」
それは綺麗な青紫の実で、珍しいからと真澄にも供された。
生でそのまま食べると爽やかな甘酸っぱさが食べやすく、料理長はそれをさらに加工してジャムを作り、焼きしめた小さなペルタをクラッカー代わりに出してもくれた。
そのほのかな酸味と、食べ口の良い甘さがちょうど良かったのか、グレイスもそれは吐かずに食べられたらしいのだ。
それを女官のリリーから聞いた真澄は、自分の分にと確保されていたそのなんとかティフドブルを辞退して、グレイスに出してもらうよう料理長に頼んだのである。
「シェイティフドブルか?」
「あ、うん。なんかそんな感じの名前だった」
「だとすると確かに帝都では栽培されてねえな。寒冷地を好む種だ」
帝都だと暖かすぎて、木そのものは枯れはしないが実はつけない、とアークが言った。
へえそうなんだ、と真澄は相槌を打ちつつ、「その辺に生えてるなら摘みに行ったのにな」と息を吐いた。
「臨月のそんな大きな腹で、か?」
「苦しいけど歩けないほどじゃないし。だってグレイスが心配だもの」
「まあ、……そこは確かにな」
存外に真面目な顔になったアークが思案顔を浮かべる。
沈みかける夕陽を真っ直ぐに見つめるその横顔は、柔らかな金色に照らされていた。
* * * *
「グレイス。具合はどう……どうしたんだ」
宿舎棟に戻り、寝室のドアを開けるなりカスミレアズは驚いた。
待望の妊娠に喜んだのも束の間、つわりが酷く伏せっていることがほとんどだった妻のグレイスが、今日はなんと身体を起こしている。寝台の上、かつその背には大きなクッションが支えで入れられているものの、しっかりとこちらを向いてくれている。
このところ仕事終わりに会えるグレイスは、いつも青白い顔でぐったりと目を閉じているか、悪ければ発作のように吐いているかのどちらかだった。
その原因が他でもないカスミレアズの子を身籠っているからなのだ。
そういうわけで、カスミレアズ自身は一時の嬉しさ以上に申し訳なさと心配ばかりが募っていた。どうにかして替わってやりたいと思うも、こればかりはいかなる魔術を以てしてもどうしようもない。そんな状態で夫としてできるせめてもは、精々が職務を倍の速さで終わらせて出来る限り朝晩共に過ごすこととくらいだった。
誰に訊いても、衛生科の職員でさえ最後は「究極の解決法は時間しかない」と異口同音に言う。
確かにそれはそうだ。
妊娠という状態が引き起こす不具合は、結局のところ出産という最後の到達点でどうあれ解除される。その理屈は全くそのとおりでカスミレアズとしても異議などないのだが、それでも目の前で苦しむ妻を目の前にしてなにも思うなというのは無理な相談であるし、どうにかしてやりたいという気持ちは常にあった。
とはいえ、一朝一夕にどうにかなる話でもない。
そうしてカスミレアズは、日々退勤の時に「今日はどんな様子だろうか、吐いて苦しむよりどうにか眠ってくれていればいいが」などと祈りにも似た思いを抱えて事務所棟から戻るのだ。それは今日も同じで、だから吐いているか眠っているかのどちらかだと思っていたところにそうではない光景が広がっていたので、本当に驚いたのである。
驚きすぎて二の句を継げないでいるカスミレアズに、グレイスは小さく微笑んだ。
「おかえりなさい。少しですけど、今日は食事をとれました」
なので、身体を起こす気力が湧いた。
そう続けたグレイスの頬は随分と薄くなってしまっていたが、控えめながらも久しぶりの笑顔が柔らかく、愛しさが際立った。
カスミレアズは着ていた制服の上衣を脱ぎ、窓際に置かれているソファの背に放り投げる。そのまま寝台へ歩み寄り、グレイスの隣へと腰を下ろす。細い肩を抱き寄せると、グレイスが目を閉じて頭をそっともたれかけてきた。
「……外の匂いがしますね」
「すまん。寝ているかと思って湯浴みせずに来てしまった」
「気にしないでください。先に来てくださって嬉しいんです」
「……そうか?」
「はい」
聴き慣れた、けれども久しぶりに聴く柔らかな声に、思わずカスミレアズの腕に力が籠った。
「明日も同じように食べられたら、散歩くらいは行けるかもしれません」
「散歩? 体調が上向いたのは良いが、それよりその、しばらく寝たきりだっただろう。いきなり散歩はきついと思うが大丈夫か? いや待て絶対に大丈夫じゃないな、散歩は頼むから俺がいる時にしてくれ、一緒に行く」
「過保護すぎませんか……?」
「君以外の誰かに対してならあるいはそうかもしれんが」
「でもあなたの迷惑」
「違う。命をかけてくれている君に、俺が惜しむべきものなどない。俺の全ては君のものだ」
「……ちょっ……と、その、やっぱり駄目ですね。刺激が強すぎます……」
そこまで言って、なにかを堪えるようにグレイスが目を瞑る。
艶やかな銀の髪にカスミレアズが口付けると、グレイスはどこかくすぐったそうに首を縮めた。
「ところで吐き気が少し治まってきたのか?」
「あ、いえ。吐き気はあまり変わらないのですけど、シェイティフドブルを沢山頂いたんです。それを料理長が色々と食べやすいように工夫してくださったお陰で」
あるものは酸味を活かしたソースとして肉に添えられ、あるものは氷菓としてくちどけを楽しむように、またあるものは焼き菓子やペルタに練り込まれ主食として。本当に、たった一つの素材であるというのに三食全てに工夫を凝らしたシェイティフドブルが供され、無理なく口にすることができた、とグレイスが微笑んだ。
最初に青果として口にした時に、吐き戻さずに食べられたものという心理的な抵抗感も少なかったからかもしれない。
体調の思わしくないこんな時にさえ真面目に考察するグレイスを腕の中に閉じ込めながら、カスミレアズはここしばらく感じていなかった安堵で胸の内が満たされた。
「……しかし、シェイティフドブル? あれはこの前、たまたま手に入ったという話ではなかったか」
「はい。その、実は……アークレスターヴ様から頂戴したのです」
「アーク様から?」
話の繋がりが見えず、カスミレアズの頭の中が疑問符で埋め尽くされた。
ここ数日、第四騎士団には遠征や特別警備などは入っていない。よって、総司令官であるアークも基本的に宮廷内にずっといたはずで、事実カスミレアズが執務室に決裁書類などを持ち込んだ時には常に在室していた。
そういう特別な動きの素振りなど全く無かったと言っていい。
首を傾げるカスミレアズに、グレイスが続きを話し出す。
「シェイティフドブルは辺境――それもアルセ自治区に群生しているのだそうです。アルセ族は基本的に狩猟民族ですが、夏にその群生地に入ってシェイティフドブルを大量に摘んで、冬越え用の保存食にするのが習わしだとかで。貴重な栄養源で、特に目に良い栄養素が豊富のようです。アルセ族はこれのお陰で視力に優れる方が多いそうで、沢山の野獣を狩れたが為に辺境の中でも殊のほか繁栄して、結果として第一部族になったのですって」
「随分詳しいな……?」
「私は知らなかったのですけど、お見舞いを頂戴した際にアークレスターヴ様が教えてくださいました」
「そうだったのか。いや、それにしても」
まるで知らなかったシェイティフドブルとアルセ族についての情報を興味深く聞きながらも、カスミレアズには更なる疑問が湧き上がった。
「アーク様は確かにアルセ族と繋がりはあるが、こんな短時間での往来など不可能では」
返す返すも総司令官は日中、ずっと在席していたのだ。
それでどうやって、と尋ねたカスミレアズに、グレイスはひどく恐縮した様子で「それが……」と頬に手を当てた。
「スヴェント大魔術士に自由転移のご助力を頂いたそうで……」
「スヴェント大魔術士に……!?」
「はい。それも早朝に。シェイティフドブルは朝摘みが一番栄養価が高いそうで……」
「早朝に……!?」
「はい。そしてガルダン様のご助力も頂いたそうで……」
「ガルダンからも……!?」
「はい。あとはマスミさまもご一緒だったそうで……」
「は……!? あの方臨月じゃなかったか……!?」
「はい。運動に丁度いいからという理由で、一緒に行かれたそうで……」
「運動に丁度いいからって自由転移で辺境に……!?」
「はい。そして皆さまで一冬を越せる分を一気に摘み取ってお戻りになられて、アークレスターヴ様はそのままいつもどおり勤務なされたそうで……」
「では朝の申し送り時には全て終わっていたということか……!?」
「はい。……どうしましょう、皆さまにこんなにして頂いて……わたくしはどうお返ししたら」
グレイスはもはや消え入りそうな声だった。
顛末を聞いたカスミレアズも、あまりのことに動揺を隠しきれない。話の内容が畏れ多すぎる。まずもって第四総司令官と首席楽士の二人から気がけてもらえるだけでも過分すぎるというのに、そこにまさかのアルバリークの至宝と呼び声高い当代随一の大魔術士からの助力を得て、さらに辺境第一部族の次期族長の手まで借りたという。
なにを以てして返すことができるのか、見当もつかない。
絶句したまま視線を泳がせると、見上げてくる銀の瞳と目が合った。
その目は戸惑いに揺れている。
それを見て、カスミレアズは抱きしめていた腕に力を込めた。
一つ深呼吸をして、己の気持ちを落ち着ける。
確かに畏れ多い話だった。だがこの厚意は有難く受けて良いものなのだ、きっと。
見返りを求めるような方々ではない。
純粋に、具合が芳しくないというグレイスのことを心配して、少しでも良くなるようにと願ってくれてのことだ。それを疑いなく信じられるくらいには、自分は彼らに仕え、また共に過ごしてきた。
「大丈夫だ、グレイス」
薄くなってしまった頬をそっと掌で包み込みながら、その眦に口付ける。
「恩返しは元気な赤子を産むだけでいい」
「え、」
「考えてみるといい。『もので返せ』だとか『誠意を見せろ』などと言うと思うか? あのアーク様とマスミ様だぞ?」
そういう類をこそ千切っては投げするのがお二人だ。これをして碧空伝説が輝いている、それを忘れたか。
断言してからカスミレアズが力を込めて頷くと、一瞬だけ呆けた後で、グレイスが噴き出した。
「ふふっ……! やめてくださいあなた、マスミ様からまた叱られますよ……!」
「問題ない。私が叱られたら、次はあちらがやらかして私が説教する番だと相場は決まっている」
「ふふふっ……!!」
腹部に手を当て笑うグレイスの肩が小刻みに震える。
「ガルダンは、子が産まれたらそれを理由に帝都に呼ぼう。そろそろ馴染みの姐さんたちに会いにくる口実が欲しくなる頃合いのはずだ」
「族長……お父様がお厳しいんでしたっけ」
「そう。エルストラス遠征の後に羽目を外しすぎたから、その反動で中々出してもらえないらしい。文をもらったアーク様が笑っていた」
「次期族長は大変ですね」
「それでも大概自由にしているようだが」
カスミレアズが頬を緩めると、想像がつくのかグレイスもまた「そうなのでしょうね」と小さく笑った。
「スヴェント大魔術士も、無事の報告をなにより喜んでくれるだろう。本当は舶来の呪いの品などあれば、完璧なのだろうが」
「――そ、う、です、ね……!」
グレイスが手で口元を覆いつつ、肩を震わせる。
明らかにエルストラス遠征で伝説となった巨大な呪いの藁人形を思い浮かべている。最後は笑いを堪えすぎて、銀の瞳に涙が浮かんで煌めいていた。
* * * *
その日は真冬だというのに朝から随分と穏やかな日だった。
しばらく続いていた悪天候の吹雪がふと止み、薄雲がかかりながらも久しぶりに覗いた晴れ間。真澄は思わず嬉しくなって窓を開けた。
冷えた空気が窓周りにふわりと立ち込めて、頬を撫でていく。暖炉に温められた部屋の中に冷たい空気が一筋流れ込む。それが髪を掠めたのが分かったのか、真澄とアークの初子がベッドの中で声を上げた。
「今日もご機嫌ね」
声を掛けながら小さな手を摘まんでやると、深い夜のような瞳の長男がまた一つ嬉しそうに笑った。
「おいで」
抱き上げてやると、ちょうどその時扉が開いてアークが入ってきた。
「あれ、どうしたの? 仕事は?」
首を傾げつつ真澄は問う。
アークが出ていったのはほんの一時間ほど前のことだ。よほどのことが無ければ、勤務時間中にアークが宿舎棟に戻ってくることはない。
なにか緊急で魔力補給が必要になったのか。
そう考えて真澄がヴァイオリンケースに目をやると、アークが「違う、良い話だ」と投げてきた。
「今からカスミレアズたちが挨拶に来る」
「え、もう退院オッケー出たの?」
「母体回復がすこぶる順調だったそうだ。赤子も全て問題ないことが確認できた。それで今日の退院だ」
「そうなんだー、良かったー……」
アークから話を聞きながら、そこで真澄は息を吐いた。
結局グレイスは、全妊娠期間を通してずっと吐き気に悩まされていた。結局まともに食べられたのはシェイティフドブルが使われている料理だけで、一冬分のそれがまさに命綱になった格好だった。
やがて月満ちて出産となったのだが、妊娠中の経過も踏まえて少し用心して回復度合いを診るということで、退院が通常より遅くなるだろうと言われていたのだ。
そんな状態だったので、グレイスは基本的に面会謝絶扱い。
真澄もお見舞いに行きたくとも行けず、首を長くして退院を今か今かと待ちわびていた。
「ね、どっちに似てると思う? うちは私もアークも黒髪黒目だから、この子もそうなったけど」
「娘だったよな? そこは母親に似て銀髪銀目になるんじゃねえか」
「そうなるとまあ、……引く手数多でしょうねえ。色んな意味で」
「中途半端な輩はどうあれカスミレアズの壁は越えられんだろ。心配ない」
「確かに」
「あとは当たり前だが俺の最終決裁も要る。第四騎士団の近衛騎士長、その娘だ。誰彼構わず出すわけじゃない。カスミレアズと俺をまとめて敵に回しても怯まない確固たる矜持と強さを兼ね備えた男だけが名乗りを上げるべきだし、かつこれを理解できる頭があって初めて申し込むに値するわけだ」
「ちょっと、いきなり何年後の心配してんのよ? 父親以上に面倒くさいこと言ってる自覚ある?」
思わず半笑いになって真澄は訊いた。
するとアークは「お前が始めたんだろうが」と小言の態を装いつつも、口の端を僅かに上げていた。
第四騎士団総司令官が後ろで目を光らせているとなれば、その虫除け効果は絶大だろう。なんなら虫どころかあらゆる魔除けまでできそうだ。そんなことを真澄が考えていると、女官のリリーがノックと共に「エイセル騎士長が来られました」と声を掛けてきた。
「おかえりなさい、グレイス。本当にお疲れ様」
柔らかなソファを勧めながら、真澄とアーク、グレイスとカスミレアズの四人で向かい合って座る。生まれて半月ほどの赤子は純白のおくるみに包まれてカスミレアズに抱かれながら、すやすやと眠っていた。
閉じられた目蓋、その縁を飾るまつ毛は銀色だ。
ふわりとした控え目な髪はその細さと柔らかさが相まって、銀どころかプラチナのように儚く光を返している。女の子ゆえに体重も控え目なのか全体的に華奢で、握りこまれた手指が細い。そして透き通るような色白な様子に、間違いなくグレイスの娘だなということが一目瞭然だった。
むしろカスミレアズの要素がどこにもない。
真澄がこっそりアークを窺うと、彼も同じことを考えていたのか「予想どおりだったな」と言いたげな目で一つ頷いた。
座ってからは、リリーが出してくれたお茶と菓子で久しぶりにゆっくりと四人で話をした。
なにより盛り上がったのは、やはりシェイティフドブルの一件である。
真澄などは摘み取りが楽しすぎて、次の夏も是非また行きたいと思っているのだが、これを明かすとグレイスが「是非ご一緒させてください」と目を輝かせた。
「次の夏なら、この子たちも一緒に連れていけるから楽しみね」
「はい」
「ね、そういえば名前はもうつけた? まだ考え中?」
アルバリークでは出生後およそ一ヶ月ほどまでに名前を付けるのが主流で、真澄とアークもあれこれ悩みつつそのくらいの時期に長男の名前を決めた。グレイスは産んでからまだ半月しか経っていないから、まだだったとしても驚きはしない。
「うちは結局アルバリーク名と日本名の両方つけたから、結構時間かかったけど。幾つか考えてるって言ってたよね」
「あ、はい。考えてはいたのですけど、実はまだ……」
「そっか。今年はデーアの八番目眷属の年だから、女の子はそれ関係の名前が人気なんだってね。でも伝統的な優しさとかを願う名前もいいよねえ。考えるのも楽しみね」
「そうですね」
グレイスは微笑んだ後、少しだけなにかを考えるように視線を宙に泳がせた。
それから彼女はほんの僅か口元に力を入れ、横に座っていたカスミレアズに「……良いですか?」と声を掛ける。受けたカスミレアズは「ああ」と短く答えながら、腕に抱いていた赤子をグレイスへと渡した。
彼女はその場で立ち上がる。
そして置かれていたテーブルを避けて、アークと真澄の前にそっと跪いた。
「アーク、……様」
不慣れな呼びかけ。
それは一瞬つっかえながらも、明確な意志がそこに滲んでいた。
「お願いがございます。わたくし共の娘にアーク様より名を賜りたく、本日はお伺いに上がりました」
どうか、と。
続いたグレイスの声の後でカスミレアズまでもが立ち上がり、そして彼女の隣で同じように跪いた。
その時、眠っていた赤子がふと目を覚ました。
母親譲りの美しい銀の瞳がアークに向けられる。それはきっと偶然であろうに、小さな銀の娘は泣きもせず真っ直ぐにアークを見つめていた。
「これまでかけて頂いたご厚情、――辿ればマスミ様とお会いした時からになりますが、なによりこの娘(こ)はアーク様の御力が無ければ、こうしてこの腕に抱くことさえ叶わなかったかもしれぬ娘でした。どうぞ、……どうぞ、この娘の未来(さき)をアーク様に照らして頂けたらと心より思い、お願いする次第です」
「っ、……」
跪きながらも決して目を逸らさず、アークを見つめるグレイス。
そっとマスミが窺うと、心底驚いた表情で固まっているアークがいた。僅かに開いた唇、瞬きを忘れた目。完全に虚を衝かれているその顔は初めて見るそれで、真澄自身も驚きながらも同時に胸が温かくなった。
「アーク様」
今度は聞き慣れた低さの声で、カスミレアズが呼びかける。
「私からもお願い致します」
金銀の二人から見つめられたアークは、数秒後に小さな苦笑を漏らした。
「……我が第四騎士団が誇る近衛騎士長と次席楽士たっての頼みとあらば、断る理由がないな」
分かった、と頷くアークの横顔は穏やかで、口元には優しい笑みが浮かべられていた。
* * * *
後年。
真澄とアークの長男は、カスミレアズとグレイスの長女に専属楽士として隣に立つことを乞う。
これが時の宮廷を揺るがした。
生半な覚悟の男など消し炭にする気満々だったアークは、実父カスミレアズ以上に己が息子の覚悟を問い質す。最後は第四騎士団総司令官の座をかけて――アークを下して世代交代ができる力があると証明できたら、専属申し込みを認めるという条件で――世紀の決闘が執り行われたのである。
その戦いは、アルバリーク中興の起点として帝国史に刻まれた。
熾火同士の決闘により第四訓練場は全壊。
第四騎士団長は大人気なく実の息子を叩きのめし、帝国最強の名を改めて轟かせ。
しかし当の長男は諦めず、当時不穏な情勢だった新旧大陸間の緊張状態に対処するという名目で第五騎士団を創設。「自由を守る紺碧の隼(はやぶさ)」をシンボルに、その初代総司令官となり鮮やかに想い人を射止め。
直後に勃発した大陸間戦争において、第四、第五騎士団は共に最前線を守り切った。
碧空の鷲と紺碧の隼。
青き両翼がいかなる脅威も払い除ける、そんな言葉と共にアルバリーク全土が沸いた。
終わり